たむたむの「カバンを開けると日本が見える!」
カバンは所詮道具入れ・・・ だからそこには、目的があり意図がある。 そして、その作り手の意図が見えたとき、 カバンは単なる道具入れではなくなるのです・・・
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9月のカバン【ポール・スミス】
やーみんな!
あっついね~。もう8月も終わりだというのに、なんじゃこの暑さは。
ほんと、日本はもう四季がなくなってどんどん亜熱帯化している感じだよね。

ほんでもって、この暑さの中いよいよ民主党の代表選が始まるよね。
で、なに~、小沢さんが出馬?

おいおい、ついこの間まで世論調査で、
国民の80パーセント以上の人に幹事長を辞任すべきといわれて辞任した人物が、
下手するとそれ以上の権力をもつ総理大臣になるかも知れないって?
なに考えてんだ民主党!!!

そしてそれを迎え撃つのが、総理大臣になって別人物みたいになっちゃった菅さん。
大丈夫か日本!!!

以前このコラムで、菅さんが総理大臣になった時、
彼の掲げる「第三の道」が、「トロンプルイユ」か単なる「だまし絵」か、どちらになるかと書いたけど、
結局「だまし絵」だったみたいだよね。
まあ、あれだけ、参議院選挙中に言うことがコロコロと変わっちゃったら
もう誰も菅さんの言うことは信じんわな。
で、菅か小沢か、か・・・

あのね、菅さんが目指した「第三の道」の本家本元のイギリスのトニー・ブレアー元首相のことを少し書こうか。

イギリスは1990年代前半以降、次々と文化におけるスターを生んで、
アメリカ文化に対しイギリスの独自性を主張するようになった。
伝統的なお家芸の音楽・ファッション・出版・広告・デザインにとどまらず、
建築・美術・コンピュータゲーム・スポーツ、
そして1996年には『トレインスポッティング』の世界的ヒットにより、
長年低迷していた映画業界でも若い世代が台頭し、イギリス発の表現は世界に広がった。

それと同時期の1994年、41歳のトニー・ブレアが労働党党首に選ばれ国内に新鮮な衝撃を与えた。
彼は「新しい世代」「新しい労働党」を標榜して、
党を労働組合から切り離し階級政党から国民政党に変換し、
さらに党綱領から産業の国有化条項を削除し、市場経済路線に転換した。

ところが、その頃のイギリスは、
「老大国、老朽化、衰退、失業、曇天、退屈」といった根強いイメージが
海外からの経済投資や優れた才能の移住に悪影響を与えていたんだ。

そこに、生まれた言葉が、「クール・ブリタニア」。
1996年末、ニューズウィーク誌がロンドンを「地球上でもっともクールな首都」として紹介した記事が
その生まれるきっかけだった。

1997年の選挙で、労働党から44歳のトニー・ブレアが選挙に臨み、
彼が首相に選出されるとオアシスのリーダー、ノエル・ギャラガーら
各界の若手アーティストらが祝意を表しに訪れ話題となった。

「クール・ブリタニア」のフレーズはブレアの新鮮なイメージにぴったりだったんだ。

ブレア首相は早速「クール・ブリタニア」という用語や『登録商標ブリテン』のアイデアを取り入れ、
国の主要産業として国家ブランド戦略を開始した。


①今後のイギリスは「クール・ブリタニア」を国家のブランドイメージとする。
②その内容は、「若い欲望や活気が渦巻く、多様な文化や未来へのアイデアを生み出す社会」である。
③文化を生み出す担い手やそれを広めるメディアなどを「クリエイティブ産業」と規定し、
 今後の雇用創出・外貨獲得・観光誘致・「クール・ブリタニア」ブランド形成の最重要産業として育成する。
④クリエイティブ産業によって、イギリスから先端的ハイカルチャーや世界的人気を博するポップカルチャー、
 世界の将来を規定するような画期的な研究を発信し、世界に「クール・ブリタニア」のイメージを広める。
⑤ブランド形成により、多くの国からの経済投資誘致・観光客誘致・文化関係者移住を促進し、 
 文化産業・芸術産業のより いっそうの強化や、観光業・サービス業・工業など各種産業の雇用の創出、
 イギリスをより多様な文化が共生するエネルギーに満ちた社会に変えることを目指し、
 もって好景気の持続、失業率低下、高齢化防止などを実現する

これが、ブレアー首相が掲げた「第三の道」。

ね、凄く具体的で、説得力あるでしょ。
実際、これでイギリス経済は立ち直ったんだよ。

よし、じゃ、今月のカバンはこの「クール・ブリタニアブーム」の一翼を担った【ポール・スミス】にしょうか。



みんなは、イギリスのファッションといったらどういうイメージを持ってる?
そう、伝統的で堅いイメージがあるよね。特にメンズは。

その、イギリスの伝統的なメンズウェアに、
モダンなファッションアイテムとしての新たな価値を見出し、
同時にスーツをはじめとする英国の伝統的なメンズウェアの良さを、
世界に再認識させたのが、【ポール・スミス】なんだ。


【ポール・スミス】は1946年7月5日、イギリス、ノッティンガム生まれ。

少年時代から独立心の強かった彼は、得意としていた自転車競技で身を立てるべく、
15歳の時学校を自主退学し、レーサーをめざして毎日特訓に励み始めた。
しかし、不幸にも事故に遭遇。
重傷を負い、半年間の入院を余儀なくされたため、レーサーへの道を断念せざるを得なくなった。

退院後、進路を断たれ、なす術もなく、パブに入り浸りの毎日が続いた。
しかし、やがてそのパブに出入りするアートスクールの学生達と仲良くなり、
彼等のオーガナイザー(主催者)としてあれこれ仲介役を果たすうちに、
アートの世界の魅力にしだいにひかれていった。
そして、さまざまな仲介を自分自身の仕事にしてみようと決心したのが17歳の時。

20歳の時、ある一人の女性と出会う。
それが、ロイヤルカレッジでテキスタイルの教師をしていたポーリーン・デニア。
やがて同居を始めるが、彼女には2人の子供と2匹の犬という同居人がいた。
一夜にして大家族の長となった彼は、家族全員を養うために、
それまで以上にあらゆる仕事をこなし、懸命に働いた。

1970年ノッティンガムに最初の店、ポール・スミス リミテッドを開く。
当初はマーガレット・ハウエル、ケンゾーなどの商品を取り扱っていたが、
ネクタイなど徐々に自らの名を冠した商品も取り扱い始める。

彼はその後4年間で専門的なデザインワークとビジネスについてのあらゆることを、
実際の仕事を進める中で学び取っていく。
そう、彼はデザイナーでありながらビジネスマンとしての自分も磨いたんだよ。

ノッティンガムのショップや、オーガナイザーとしての彼の仕事ぶりは、
やがてロンドンのファッション業界で噂されるほどになっていた。

そして1974年、その噂を聞きつけた「ブラウンズ社」に、
専任のコーディネーター兼デザイナーとして採用される。
彼はノッティンガムの自分のショップを経営するかたわら、
3年間同社の買いつけとブラウンズブランドの商品デザインを担当し、
同社の名声を高める大きな原動力となった。

同時に、彼はノッティンガムの彼のショップも大きくしようと考える。
そして初めて自分の名前を冠したシャツを作り、それを自身で売り込みに回る。
この時、初めて買ってくれた客が、ニューヨークの有名デパート“バーニーズ”のオーナーの息子。
彼は、オーナーの息子が宿泊しているホテルを聞きつけて押しかけ、
一枚ずつ熱心に説明したんだ。
そしてその熱心さに感心したオーナーの息子から、200枚の購入契約を勝ち取ったんだ。

何でもやってのける彼の行動力のエピソードは他にもあるんだ。

1976年、彼は初めて自分のコレクション・ショーを開いた。
とは言っても、もとより資金の余裕などなかった彼は、
パリのアパートメントの一室を借り、そこを会場にした。
モデルは友人をかり集め、フィッターもポーリーンや友人が担当した。
会場用の椅子は、アパートの隣り近所をかけ回って数十脚を揃えた。
スーパーでシャンパンを買い、借り物のグラスを並べ、
自分の家から持ってきたステレオで音楽を流すという、
何から何までチープな仕込みではあったが、ショーは大成功だった。

そして、以降、毎シーズンパリでメンズウェアの新作コレクションを発表することになる。

1979年、33歳になった年、念願だったロンドン市内にショップをオープン。

1980年ニューヨークデザイナーズコレクティブにパリのマルセル・ラサンスなどと共に招聘される。

1984年日本に進出。南青山の骨董通りに路面店を構える。

1987年ニューヨーク5番街に路面店を構え、
ヤッピーと呼ばれた若いエリート層の間で一種のステイタスシンボルとなる。

1989年英国の名門デパート『ハロッズ』に単独のコーナーショップがオープン。
これはハロッズの歴史上、かつてない展開。

1991年英国産業デザイナー賞を受賞。

1994年エリザベス女王より大英帝国勲章(CBE)に叙勲される。
 
1997年トニー・ブレア首相就任の際に認証式のスーツを担当する。
(以後、ブレア首相退任までの10年間の長きに渡り公務のスーツを担当した。)

1998年ロンドンの高級住宅街ノッティングヒルに、
念願であった邸宅を改装しビスポーク(注文服)のアトリエを併設した旗艦店「ウエストボーンハウス」を開店。

2000年ファッションデザイナーとしてはハーディ・エイミスに続き2人目となる
エリザベス女王からサーの敬称で呼ばれるナイトに叙勲される。



どう?
彼の仕事振り?
彼は素晴らしいデザイナーであり、優秀なビジネスマンであり、そして多彩なアイデアマンだったんだね。
彼は17歳のとき、「さまざまな仲介を自分自身の仕事にしてみようと決心した」。
その後、彼は生きるために様々仕事に手を出したが、
どんな仕事でもそれは一つの仕事に変りは無いという、彼の姿勢は一切ぶれなかった。

そして、彼はこの仕事をするきっかけとなったアートの世界にも以前関わりを残しているんだ。
コンテンポラリーアート(現在芸術)の蒐集家として、
そして、若いアーティストを支援するスカラシップ(奨学金)を行なう者として・・・。






菅さんは総理大臣になって本当に人が代わったかのように輝きを失った。
それは、総理という仕事が彼を変えてしまったのかもしれない。
でもね、総理大臣の仕事は誰がやっても目的は一つなんだよ。

「日本をよくすること。」

これが総理大臣の仕事。







"The job changes you, you don't change the job."
『仕事によってあなたは変わる事もあるが、あなたが仕事を変えることはできない』 

                                  (ポール・スミス)




  





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8月のカバン【FENDI】





「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり・・・」

やー、みんな。暑い毎日が続くけど元気かな?
ところで、「しょっぱなから何の呪文か?」って。
「悪魔くん」だよ、「悪魔くん」。
そう、実は僕は今NHKの朝ドラ、「ゲゲゲの女房」にどっぷりとはまっているんだ。

漫画、「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である、
水木しげるさんの奥さんの手記を原作とするこのドラマ。
実に面白い!!!

第二次大戦後の昭和の時代を舞台に、
家族の愛や、友情、物作りの情熱をテーマに毎回感動を与えてくれるんだ。

その中でも、最近僕が一番感銘を受けた場面は、
シベリアに抑留された後帰国し、全てに投げやりになっていた男が、水木しげるさんに対する場面。

実は水木さん、大戦で左腕を無くしているんだけど、その水木さんに男がこう言うんだ。
「あんたもそうだろう。そんな身体になって他にやることが無いから漫画なんか画いてるんだろう。」

すると水木さんは、少し困った風にこう答えるんだ。
「そんな事考えたことないですな。自分は好きで漫画を画いとります。」

その、水木さんの自信に満ちた言葉と態度に男は再び仕事を始める事を決意するんだ。

水木さんの仕事に対しての 「誇り」と「責任」 そしてその仕事への「情熱と愛情」。
それは、多くの日本人が今無くしてしまっているものかもしれない・・・
そんな事を考えさせられたんだ。

そして同時に僕はある言葉を発した、あるひとりの人物思い出した。
それは、ファッション界の「皇帝」と呼ばれるカール・ラガーフェルド。

フェンディ、シャネル、クロエ、そして自分のブランドの4つのメゾンのデザイナーを兼任し、
超多忙な毎日を過ごすカール・ラガーフェルドが仕事について聞かれたとき答えた言葉が、

「仕事でなにが楽しいかって? それは仕事そのものだよ」なんだ。


よし、んじゃ、今月のカバンはそのカール・ラガーフェルドが手掛けたブランドの一つ、
【FENDI】について書こうか。



ダブルF柄(ズッカ柄)で有名な【FENDI】は、そのマーク通り、二人のフェんディーよって設立された。
1925年、ローマでエドアルド・フェンディ&アデーレ・フェンディ夫妻が
ローマのプレヴィシート通りに小さな皮革製品の店と毛皮工房をオープンしたのが始まり。

1946年、ピアーヴェ通りに店をオープン。
これを機に創始者の娘、パオラ、アンナ、フランカ、カルラ、アルダのフェンディ五姉妹が会社に従事し始める。
その後、彼女達の才知と手腕によって、店は発展。

1965年にカール・ラガーフェルドが毛皮のデザイナーに就任。
ラガーフェルドは、かつて試されたことのなかった、
織り込み、重ね込み、エナメル加工、ステッチ使いなどさまざまな技法を駆使。
このカールの革新的なデザインは、毛皮のイメージをクラシカルなものから
クリエイティブで機能的なものに一新したんだ。

こうして、【FENDI】はほかの毛皮専業メーカーの追随を許さない、
ラグジュアリーで個性的なモードブランドへと成長した。

1969年、毛皮コートのプレタポルテを発表と同時にバッグや小物も発表。
このときに、1940年代からコートや羊のバッグの裏地として使われていた「ダブルF」の柄にカールが着目、
これを表側に使うよう提案し、有名な「ズッカ柄」が誕生。

1977年には毛皮や革製品にコート、ジャケットなど幅広いアイテムが加わり、
本格的なプレタポルテをスタート。

1997年、フランスパンを小わきに抱えているかのように持ち歩くことから名づけられた、
新作バッグ「バゲット」を発表。一大ブームを巻き起こす。
こちら関西では、甲南女子大の女の子達が広めたとされ、「南女持ち」なんて名づけられたよね。

1999年、新作バッグ「ロールバッグ」を発表。
同年、LVMHグループとプラダが資本参加し、合弁会社を設立。

2000年、直営店のネットワークを強化、全世界で4店舗から83店舗まで拡大。
2001年、プラダが保有する合弁会社の株のすべてをLVMHグループが買収。

この頃よりバッグのセレリア・ラインを発表。
創業者アデーレとエドアルド・フェンディが、
乗馬を好んでいたことにインスピレーションを得て誕生したこのラインは、
ローマの伝統的な馬具に使用される貴重な革「キュリオ・フィオレ」を使用し、
特徴的な、持ち手やへり部分のステッチも含め、全工程が専門の職人の手作業で行われている。

2003年春夏コレクションで新たに発表されたのは、
古代ローマの戦車にインスピレー ションを得た新作バッグ「ビガ」。
SFムードただようシルバーメタリック色のバッグは、今まで見たことのない斬新なデザイン。

そして、現在はフラップ部分がガマ口になった異色のデザイン「スパイ」シリーズが大人気となっているんだ。


一方の、カール・ラガーフェルドは、

【FENDI】のデザイナーに就任する二年前の1963年、クロエのヘッドデザイナーに抜擢。
1965年から【FENDI】のデザイナーも兼任し、
1983年からは、ココ・シャネル亡き後低迷していた、シャネルのデザイナーに就任。
シャネルを立て直す。
馬鹿でかいサングラスが大ヒットしたよね。

1984年、自身のブランド「カール・ラガーフェルド」をスタート。

1986年、デ・ドール賞(金の指貫き賞)受賞。
1988年、マルティーヌ・シットボンにクロエのデザイナーをバトンタッチするが、
1992年、再度デザイナーに復帰。
結局クロエは5年間勤めた後、97年にステラ・マッカートニーにバトンを渡す。

2004年にH&Mとコラボレーションで「Karl Lagerfeld for H&M」を展開し、大きな話題となる。
2005年、自身のブランドを、トミー・ヒルフィガーに売却。
2008年、TIME誌が選ぶ最も影響力がある100人にファッションデザイナーとしては唯一選出される。
2009年、レペットとのコラボレーションでフラット・サンダルとプラットフォーム・ヒールを発売。
そして、現在に至っているんだ。

ね、凄い人でしょ。
こんな人が、「仕事そのものが楽しい」って言うんだよ。
考えさせられちゃうよね。



でね、もっと凄いのがカールの周辺で働く人たち。

「サイン・シャネル カール・ラガーフェルドのアトリエ」というドキュメントでの一コマ。

舞台は 「シャネル」のオートクチュールのコレクションに向けての職人たちの仕事場。

職人と言ってもお針子さんたちは普通のおばさんたち。
そのお針子さんたちが、カールのスケッチのドレスを作り上げるのだが、
やっと仕上がる寸前でカールの要求が変わったり、没になったりする。

それでもこの仕事が好きだという一人のお針こさんに「この仕事の魅力は?」と
インタビュアーが質問すると彼女はこう答えるんだ。

「困難なことね!」 




僕が、「ゲゲゲの女房」にずっぽりとはまってしまったのは、
いくら貧乏をしようとも自身の仕事に対するスタンスがぶれない水木さんの姿勢に、
自分の姿を重ね合わせているから。

今、僕たちは「TIPZONE」と言うブランドを育てている真っ最中。
そのコンセプトは、
「妥協を許さない質へのこだわり、
外観の美しさだけでなく生活の道具として、合理的で機能的な美しさの追求。」
というもの。

当然高額の商品となり、それは、今の時代には合わないかもしれない。
苦戦もしてきた。心無い言葉も掛けられた。
けれども、ここになって少しずつ少しずつ世間に認められてきたんだ。

今、もう一歩。
僕らは水木さんの言葉や、カール・ラガーフェルドの言葉、お針子さんの言葉を胸に、
仕事に取り掛かろうと思うんだ。












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