たむたむの「カバンを開けると日本が見える!」
カバンは所詮道具入れ・・・ だからそこには、目的があり意図がある。 そして、その作り手の意図が見えたとき、 カバンは単なる道具入れではなくなるのです・・・
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11月のカバン【プラダ】
やー、みんな!知ってる?

今年の6月25日に急逝したマイケル・ジャクソンが、ロンドンで実施予定だったコンサート”THIS IS IT”。
その何百時間にも及ぶリハーサルとビハインドシーンの映像を使用した劇場映画が今公開されてること。

何しろ、この映画10月28日に全世界同時公開され、2週間限定なものだから、
マイケルファンじゃなくとも足を運びたくなるよね。

マイケルといえば一番輝いていたのが、1980年代。
1982年に発売された、アルバム『スリラー』は全世界で4000万枚売れたんだって。凄いね!
そういう僕も当時MTVを食い入るように見ていたよ。
懐かしいね。

よし、じゃ今日は1980年代の話をしようか。

前に、「L..L..Bean」の話のときに1970年代後半の話をしたよね。
「ファッション界はニュートラからハマトラへと移り変わって行く」て、とこで話は終ってたっけ。

実は、1980年代は日本のサブカルチャー(大衆文化)が欧米に追いつき、追い越したと思われた時代。
音楽界ではイエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)が、世界的大ヒットを飛ばし、
ファッション界ではヨージ・ヤマモト、コム・デ・ギャルソン、イッセイ・ミヤケらのコレクションがパリで大旋風を巻き起こした。

これが、もとで日本のファッション界は一気に「D.C(デザイナーズ・キャラクターズ)ブランド一色となる。
「BIGI」「コムサ・デ・モード」「インゲボルグ」「ピンクハウス」等、数え上げたらきりがないよね。

社会的には、空前の漫才ブームが起こり、「毒ガス」と呼ばれたビートたけしが登場。
コピーライターという本来裏方の仕事を時代の最先端に引き上げた糸井重里なんてのも出てきたよね。

で極めつけは、田中康夫。
ブランドやレストラン、学校や地名などの固有名詞がちりばめられただけの小説、
『なんとなく、クリスタル』がブームになり、「なんクリ」なんて言葉が若者の合言葉となったんだ。
カフェーバーがブームになり、ニューウエーブが街を席捲した。

つまりね、1980年代を振り返ってみると、全てが曖昧模糊として、実態の見えないものばかりだったんだ。
そして、それら全てのバックボーンにあったのが空前のバブル景気なんだ。

好景気ゆえ、ビジネス至上主義に囚われる事がなく、目新しいものが全て歓迎された時代。
それゆえ、日本のサブカルチャ-は一瞬世界のトップに並んだ。・・・かのように見えたんだ。
けれど、それはその後のバブル崩壊で、もろくも崩れ去ったんだ。

でね、
バッグ業界で、この1980年代に大躍進したのが、今月のカバン【プラダ】なんだ。

今では、「今季のトレンドはプラダを見れば把握できる」
とまで言われるファッション界のリーダーとなった【プラダ】。
でも、実はこの1980年代までは【プラダ】は凋落の時代にいたんだよ。





【プラダ】の創設は、1913年。

創設者マリオ・プラダがミラノのドゥオモ近くに革製品の店「プラダ兄弟商会」を開いたことに始まる。
彼は世界中から、「ワニ皮」や「オーストリッチ」などの高価な素材を集め、
貴族向けに旅行カバンや革小物を発表した。
やがて、ブルジョアの間で、エレガントでハイセンスな商品を作るデザイナーとして、
次第に名声を手にしたマリオ。
ついには【プラダ】は、イタリア王室の御用達ブランドとなったんだ。

ところが、「動物愛護」の声が高まってきたことや、デザインの流行性などが原因で、人気は下落。
【プラダ】はマリオ・プラダが1958年に他界した後は全くの無名ブランドに凋落してしまうんだ。

【プラダ】の経営は、マリオの娘に引き継がれた。
けれども、長く低迷期から抜け出すことは出来なかった。

そんな、【プラダ】を救ったのが、マリオの孫娘3代目のミウッチャ・プラダ。

1978年、彼女はオーナー兼デザイナーに就任すると、
マリオが旅行用のバッグに使用していた工業用防水ナイロン生地「ポコノ」に目を向け、
ポコノと革を併用したバッグを開発。
1985年、これが世界的なセンセーションを巻き起こすほど大ヒットしプラダ再躍進。
スーパーモデルや世界中のファッション・エディターたちの注目するブランドとなったんだ。
もちろん、バブル期の日本がこの流行の大きな後押しとなったのは間違いない。

その後、ミウッチャは1989年に婦人服に進出し、プレタポルテのコレクションを発表。

1992年にはミウッチャのニックネームをとったセカンドライン『ミュウミュウ』がデビュー。

そして、1996年には逆三角形のロゴプレートを付けたポコノ製品が広く展開され、【プラダ】は更に大躍進!
このシリーズも、日本では嫌っていうほど見かけたよね。

1998-99 A/Wからプラダスポーツを新しく発表。
この、プラダスポーツによって【プラダ】はさらに活動的に進化し、
男性からも強い指示を受けることになったんだ。

このミウッチャ・プラダ。
さぞかし、才能溢れるデザイナーだと思うでしょ。
ところが、彼女、【プラダ】に入る前は、ミラノ大学政治学部の学生だったの。

学生時代にはパントマイムの勉強をし、
共産党に入り、女性解放運動の先頭に立っていたんだって。

だから、彼女のこの才能が開花したのは、ファッションの世界の入ってからなんだよ。
凄いよね。

でね、ミウッチャが豊かな創造力を発揮する一方、
経営、生産面のブレーンとなったのが、旦那さんの、 パトリッツィオ・ベルテッリ なんだ。

ミウッチャとベルテッリが初めて出会うのは1970年代の終わり頃。
当時、ビジネスマンだったるベルテッリは、
高品質の皮革小物の製造で高い評価を得ているメーカー2社を所有していたんだ。

ミウッチャとベルテッリはビジネス・パートナーとして協力関係を築いた後、
私生活でもパートナーとなったんだ。

「夫と出会っていなかったら、たぶん私はギブ・アップしていただろうし、
少なくともこんな業績は残せなかったと思う」(ミウッチャ・プラダ)

「プラダ現象」とも呼ばれたこの大躍進。
実は「時代」と「出会い」という、人生で一番大事なものがもたらしたのかも知れないね。


「百年に一度の大不況」と言われた今、
「プラダ現象」を引き起こした【プラダ】にとってもそれは他人事では無い。

でもね、彼女はこう言うんだ。

「(金融危機によって)多くの変化があるかもしれないが、
それがさらに悪化する場合を除き、何も変わらない方がむしろ怖い」(ミウッチャ・プラダ)


マイケルの死も時代の一つの変革かもしれないね。







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