たむたむの「カバンを開けると日本が見える!」
カバンは所詮道具入れ・・・ だからそこには、目的があり意図がある。 そして、その作り手の意図が見えたとき、 カバンは単なる道具入れではなくなるのです・・・
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やー、みんな!
とうとう、12月。今年もあと一ヶ月だね。
そして、2008年3月から始まったこの連載コラムも今日が最終回。
みんな、今まで愛読してくれてありがとうね。

さー、いよいよ【今月のカバン】も最後の一話。
何を書こうか迷ったんだけど、やっぱりこれに決めた。

このコラムでは、これまでいろんなバッグのブランドを紹介してきたけど、
今日は最後に僕が関わっている【TIPZONE】というバッグブランドを紹介するね。
で、今月のカバンは【TIPZONE】で決まり!


【TIPZONE】は、元々は神戸のセンター街にあるバッグのセレクトショップだった。
それも、国内有数のバッグメーカーから商品を品揃えした、高感度セレクトショップ。

けれどもね、みんなも知ってのとおり、2000年代後半から日本ではデフレ化が進み、
どんどんと、高級品が売れなくなってきた。
これまで頑なに高品質な物造りを貫いてきた多くのメーカーも、
その対策として、妥協せざるを得ない部分が多くなってきたんだ。

【TIPZONE】を率いるのは、草山徹平と良輔という草山兄弟。
仕入れを担当していた草山徹平氏は、今まで最高の物作りをしていたメーカーが、
少しずつ変化しているのに、敏感に察知した。
「もう、自分を納得させる物作りをしてくれるバッグメーカーは無くなってしまうんじゃないか・・・」

そんな思いから、2007年ごろから少しずつオリジナル商品を開発していったんだ。

けれども、当初、草山氏はオリジナル商品を自分の店で展開することしか考えていなかった。
それが、全国展開の卸し事業を目指すことになったのは、2008年春のこと。
奇しくもこのコラムの連載がスタートした時。

その日、TIPZONEのオリジナル商品に関わっている職人さんが神戸に集まった。
僕も、その席に呼ばれ、食事を共にした。
それは、これからの【TIPZONE】のオリジナル商品をどうするかという、
ちょっとした決起集会みたいなものだった。

そこで、僕は草山氏にこう言ったんだ。

「徹平君!自分は、神戸の、それもセンター街の、ただの鞄屋の親父で終っていいの?」
 やるんなら、世界に通用するブランドを目指そうよ!」

酔っぱらいの戯れこととは、彼は思はなかった。
この日を境にして、【TIPZONE】は、新しい道へと進み始めたんだ。

「妥協を許さない質へのこだわり、
外観の美しさだけでなく生活の道具として、
合理的で機能的な美しさをコンセプトにオリジナル商品を創り出す。」
彼の、この思いは次々と新しい鞄を生み出していった。

【TIPZONE】の主力製品はイタリアのフェレンッエの工房で作られている。
その為、彼は頻繁にイタリアに渡りその素材選びからデザインまで一貫して行っている。

又、僕の工房では自分が納得するまで鞄のラインを型紙を切って形作る。
それは時には徹夜になることもある。

そして、2008年秋【TIPZONE】は、神戸セレクションに選出される。

翌年の2009年には近畿経済産業省の関西デザイン選に選出され、
とうとう今年の夏、初のIFF(インターナショナルファッションフェア)に出店。

そこで、この冬より、あのポール・スミスが躍進するきっかけとなった、
有名百貨店バーニーズとの取引が始まったんだ。

「世界に通用するブランドを目指す。」
それは、簡単なことでは無い。

でも、彼の、あの物作りへの情熱があれば必ず達成される。

僕は、そう信じているんだ。







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11月のカバン「鞄職人と呼ばれて・・・」


やー、みんな!
あっという間に11月に入ったね。今年ももうあと二ヶ月か・・・。
ほんと、一年が早すぎるよね。
そうそう、あと二ヶ月といえば、このコラムの連載も残すところ後二回なんだ。
なので、来月が最終回っていうわけ。
みんな、長い間つきあってくれて本当ありがとうね。

で、後二回、何を書こうかと考えたんだけど、やっぱり最後は自分のことかなと。
実はずっと昔僕は鞄職人と呼ばれることが嫌で仕方ない時期があったんだ。
でも、ある出来事がきっかけでそんな自分を見直すことが出来たんだ。


それは、こんな出来事・・・

僕が、大学を卒業してすぐにメーカの橋渡しみたいなことをしていたことは前にも述べたよね。
そう、大学時代アルバイトしていた鞄の小売屋さんが「Bobby's」っていうアパレルショップを開店して、
そのバッグ部門を任されて、その企画室とメーカーのサンプル室を行き来していたって話。
何年かはそんなことをしていたんだけど、あまりにしつこくサンプル師さんに付きまとうもんだから、
「ミシン上げるから自分で作り!」と言われ、ある頃から僕は自分で鞄を作るようになったんだ。

それから、又何年か過ぎ、周りからも「鞄職人さん」と呼ばれるようになり始めたある頃、
当時、月刊「サヴィー」の編集長だった須田悦子さんと顔見知りだった僕は、
ある取材の協力を頼まれたんだ。


内容は、「湊川・新開地地区の食べ歩き、店紹介」。
須田さんに連れられてやってきた記者が「餃子さん」と言うあだ名の窪田さん。
(いつも、餃子の王将Tシャツを着ていたのでこのあだ名がついたらしい)

この餃子さん。須田さん曰く、「一度、ふらりと出かけたら、
何ヶ月も連絡が取れない風来坊」とのこと。


なるほど、風貌はまさしく風来坊。髪はぼさぼさ、髭ぼうぼう。
ところが、当時の私も負けていない。
二人並んで歩いていると、まだ「地下鉄サリン事件」が起こる前だったが、
「公安に職務質問されるのでは?」と周りが心配するほどのうさんくささ。

そんな二人が、取材に出かけたのだが、似たもの同士やはり意気投合!
餃子さんは、僕が紹介した、お店の全てに大満足してくれた。
そんなこんなで取材後、飲みに行く事になったんだ。


最初は、非常に盛り上がった。

「イヤー。取材でこんなに楽しかったのは、久しぶりやね!」
餃子さん、上機嫌。


「そうや、今回の取材のタイトル
[こだわりの鞄職人が選ぶ、湊川・新開地グルメ]でどうやろ?」

「いえ、僕は鞄職人じゃないですから・・・」

このあたりから、話がおかしくなってきたんだ。

「何でや。鞄作ってるんやから鞄職人とちがうんか?」

「いえ、今鞄を作っているのは、
これまで仕事をしてきた流れで、たまたまです。」


それまで話をしていた中で、餃子さんが私の大学の同じ文学部の先輩で、
しかも仕事をこなしながら
「小説家になる」という夢も捨てていない事を知った僕は少し嫉妬していたんだな。

(餃子さんは自分がしたかったことをしている。)

その餃子さんに「鞄職人」と言われた事がたまらなく嫌だった。


「じゃあ。おまえはなんなんや?」

バブル全盛の横文字職業大流行の時代。

「出来れば、プランナーとかデザイナーと呼んで頂ければ・・・・」
餃子さん沈黙。

「ほんまにそう思ってるの?」

「餃子さんは知らないんです。僕が今まで出会った職人さんで、
外車に乗っている人もいなければ、大きな家に住んでいる人もいない。
皆、とっても苦しい生活をしている。」

「呼び方が、横文字に変われば外車にも豪邸にも住めるんや!」

「いえ、そうじゃなくって・・・・・。
大学出て、鞄職人と呼ばれたくないんです。」

「おまえ・・・・職人さんを思いっきり馬鹿にしてるな。」

「いいえ、馬鹿になんかしていません!」


そんな口論がいくつかあった後、餃子さんが最後に言った一言が

「おまえが作る鞄は、可哀想や!」だったんだ。

その意味がわかるまで、僕は何年もかかったんだ。

僕が、鞄職人という言葉を意識したのも、自分の仕事は何だと考え始めたのも
この事件がきっかけだった。

3ヵ月後、発刊された「サヴィー」の紙面には
どこにも[鞄職人]という文字は載っていなかった。



僕が、鞄職人になった理由。
それは、一言で言えば「たまたま」。
そう、そこには理由なんか無いんだ。あえて言えば「生きるため」。
だと思ってた・・・

でもね、今は違うんだ。

本当の意味を知るのは時間がかかるんだね。






10月のカバン【目を失った鞄職人】


やーみんな!やっと秋らしい気温になってきたね。 

今年の夏は記録的な猛暑だったけど、
その影響で来春の花粉の飛散がすごいことになるらしいよ。
今からみんなも花粉対策をしていた方がいいかもね。
クシャミが止まらないとほんと辛いもんね。

そうそう、クシャミと言えば少し前までは「アメリカがクシャミをすると、日本が風邪をひく。」
と言われていたけど、今や「中国がクシャミをすると、日本が風邪をひく。」
と言われるようになっているらしいね。

それだけ、日中の二国間の経済が絡み合っているってことだけど、
それにしても、今回の尖閣諸島での衝突事故を巡る中国政府の対応は酷いね。
日本政府の弱腰な対応もどうかと思うけど、
中国のそれにはあきれるのを通り越して怒りさえ覚えるよね。

僕は、大学で東洋史を学んでいたんで、
少しは中国に対して尊敬の念を抱いていたこともあったんだ。

でも、ここ20年ほどの間の経済発展の間に、中国はどうしようもない国になってしまった。
そして、僕はこんな中国にした責任の一つが日本にもあるような気がしてならないんだ。
それは、僕が中国の事を考える時必ず頭に浮かんでくるある職人がいるからなんだ。

よし、んじゃ、今月の鞄はそのことを書こうか。
今までと少し趣が違うんで番外編と言うことで、今月のカバンは【目を失った鞄職人】。





それは、今から約25年前のお話。

前にも話したように、僕がまだメーカの橋渡しのような仕事をしている時、その人に出会ったんだ。


ある、アパレルメーカに革の鞄を依頼されたんだけど、
お付き合いをしているメーカーさんが革を扱えなくて、ある鞄職人さんを紹介してもらったんだ。

僕の父親と同じ歳のその人は、
鬼瓦のような顔をしていたけど、いつもにこにこしていた。

グローブのような大きな手で、見事なまでに型紙もなしに
包丁で革をまん丸に切り抜く。

初めて見る職人芸に僕は目を白黒させたものだった。

「ジョブさん(私の会社名)仕事ちょうだいな。」

それがその人の口癖だった。

下請けの下請けをしているその人はすばらしい技術とは裏腹に、
粗末な暮らしをしていたんだ。

或る日その人はいつものようにニコニコしながら、

「ジョブさん、今度中国に技術指導員で行きますねん。」

聞けば大手メーカーの依頼で新しく中国に作る縫製工場の
技術指導員として1年間雇われたという。

今から25年以上前、今と違ってメイドイン・チャイナが
粗悪品の代名詞となっていた時代。

「これで1年間、食いっぱぐれがないですわ。」

その人はいつも以上に、にこにこ笑ってそう言ったんだ。




それから1年程して、その人から
「お願いがあるので会ってほしい。」という電話があった。

電話のトーンが低いので何事かと僕は飛んで行った。

会って驚いた。

鬼瓦のような顔は明らかに深い皺が増え、頬はこけ
グローブのようだった手は一回り小さくなっていたんだ。

「どうしたんですか?」

「目やられてしまいましてんや。
黒い糸が見えへんのですわ。

廃業しますので、ジョブさんミシンでも何でも
いるもん買うてくれませんか?」

座敷に上がって話を聞くと、行った先の中国の工場は
酷い劣悪な環境下にあったとのこと。

トイレは異臭が漂い、だだっ広い土間に
溝が一本引いてあり、ただ水が流れているだけのもの。

照明も薄暗く工場とは名ばかりでとても人が
作業できるような状態ではないとの事。

食事も日本人が食べる常識のものとはかけ離れたものが出されてくる。

そんな中で1年間働き、帰ってきたら職人の命である目をやられてしまっていたんだ。

「保障はないんですか?」

「そんなもんありますかいな。」

「そんな!使い捨て・・・」

僕は言葉を飲み込んだ。

「これからどうするんですか?」

「ジョブさん、もうミシン踏めませんのや。」

その人は、白く濁ったちいさな目に涙をいっぱい溜めてそう呟いた。







25年前、日本の企業は安い労働力に惹かれてその生産拠点を次々と中国に移した。
それは、僕が関わる鞄の世界だけではなく、ありとあらゆる分野で行なわれた。

その頃の中国は労働賃金は安いけれど、とても日本の技術力に太刀打ちできるものではなかった。
その為、日本企業は技術指導員と言う名のもとに、
自国の素晴らしい技術をただ同然で中国に売り払った。
中国企業も貪欲に日本の技術を吸い取った。

そこまでは、まだいい。

中国企業のお偉いさんたちは、日本企業のお偉いさんが来ると、
こぞって夜な夜な、怪しい風俗店に接待したと言う。
そうしておけば、日本人は喜ぶものと思っていた。

中国を安い労働力としか思っていない日本人。
日本をただで技術を教えてくれるスケベ親父と馬鹿にしていた中国人。

そこには、心の交流どころか、
もの作りの魂のかけらも伝えられていなかった。

もしあの頃から、お互いに欲徳抜きに接しられる関係を築くことが出来ていたら、
少なくとも、民間レベルでは今日の日中関係にはなっていないと僕は思うんだ。

今、日本企業はより安い労働力を求めて、今度はベトナムや、バングラディシュに進出している。
同じ過ちは絶対に繰り返してはならない。













9月のカバン【ポール・スミス】
やーみんな!
あっついね~。もう8月も終わりだというのに、なんじゃこの暑さは。
ほんと、日本はもう四季がなくなってどんどん亜熱帯化している感じだよね。

ほんでもって、この暑さの中いよいよ民主党の代表選が始まるよね。
で、なに~、小沢さんが出馬?

おいおい、ついこの間まで世論調査で、
国民の80パーセント以上の人に幹事長を辞任すべきといわれて辞任した人物が、
下手するとそれ以上の権力をもつ総理大臣になるかも知れないって?
なに考えてんだ民主党!!!

そしてそれを迎え撃つのが、総理大臣になって別人物みたいになっちゃった菅さん。
大丈夫か日本!!!

以前このコラムで、菅さんが総理大臣になった時、
彼の掲げる「第三の道」が、「トロンプルイユ」か単なる「だまし絵」か、どちらになるかと書いたけど、
結局「だまし絵」だったみたいだよね。
まあ、あれだけ、参議院選挙中に言うことがコロコロと変わっちゃったら
もう誰も菅さんの言うことは信じんわな。
で、菅か小沢か、か・・・

あのね、菅さんが目指した「第三の道」の本家本元のイギリスのトニー・ブレアー元首相のことを少し書こうか。

イギリスは1990年代前半以降、次々と文化におけるスターを生んで、
アメリカ文化に対しイギリスの独自性を主張するようになった。
伝統的なお家芸の音楽・ファッション・出版・広告・デザインにとどまらず、
建築・美術・コンピュータゲーム・スポーツ、
そして1996年には『トレインスポッティング』の世界的ヒットにより、
長年低迷していた映画業界でも若い世代が台頭し、イギリス発の表現は世界に広がった。

それと同時期の1994年、41歳のトニー・ブレアが労働党党首に選ばれ国内に新鮮な衝撃を与えた。
彼は「新しい世代」「新しい労働党」を標榜して、
党を労働組合から切り離し階級政党から国民政党に変換し、
さらに党綱領から産業の国有化条項を削除し、市場経済路線に転換した。

ところが、その頃のイギリスは、
「老大国、老朽化、衰退、失業、曇天、退屈」といった根強いイメージが
海外からの経済投資や優れた才能の移住に悪影響を与えていたんだ。

そこに、生まれた言葉が、「クール・ブリタニア」。
1996年末、ニューズウィーク誌がロンドンを「地球上でもっともクールな首都」として紹介した記事が
その生まれるきっかけだった。

1997年の選挙で、労働党から44歳のトニー・ブレアが選挙に臨み、
彼が首相に選出されるとオアシスのリーダー、ノエル・ギャラガーら
各界の若手アーティストらが祝意を表しに訪れ話題となった。

「クール・ブリタニア」のフレーズはブレアの新鮮なイメージにぴったりだったんだ。

ブレア首相は早速「クール・ブリタニア」という用語や『登録商標ブリテン』のアイデアを取り入れ、
国の主要産業として国家ブランド戦略を開始した。


①今後のイギリスは「クール・ブリタニア」を国家のブランドイメージとする。
②その内容は、「若い欲望や活気が渦巻く、多様な文化や未来へのアイデアを生み出す社会」である。
③文化を生み出す担い手やそれを広めるメディアなどを「クリエイティブ産業」と規定し、
 今後の雇用創出・外貨獲得・観光誘致・「クール・ブリタニア」ブランド形成の最重要産業として育成する。
④クリエイティブ産業によって、イギリスから先端的ハイカルチャーや世界的人気を博するポップカルチャー、
 世界の将来を規定するような画期的な研究を発信し、世界に「クール・ブリタニア」のイメージを広める。
⑤ブランド形成により、多くの国からの経済投資誘致・観光客誘致・文化関係者移住を促進し、 
 文化産業・芸術産業のより いっそうの強化や、観光業・サービス業・工業など各種産業の雇用の創出、
 イギリスをより多様な文化が共生するエネルギーに満ちた社会に変えることを目指し、
 もって好景気の持続、失業率低下、高齢化防止などを実現する

これが、ブレアー首相が掲げた「第三の道」。

ね、凄く具体的で、説得力あるでしょ。
実際、これでイギリス経済は立ち直ったんだよ。

よし、じゃ、今月のカバンはこの「クール・ブリタニアブーム」の一翼を担った【ポール・スミス】にしょうか。



みんなは、イギリスのファッションといったらどういうイメージを持ってる?
そう、伝統的で堅いイメージがあるよね。特にメンズは。

その、イギリスの伝統的なメンズウェアに、
モダンなファッションアイテムとしての新たな価値を見出し、
同時にスーツをはじめとする英国の伝統的なメンズウェアの良さを、
世界に再認識させたのが、【ポール・スミス】なんだ。


【ポール・スミス】は1946年7月5日、イギリス、ノッティンガム生まれ。

少年時代から独立心の強かった彼は、得意としていた自転車競技で身を立てるべく、
15歳の時学校を自主退学し、レーサーをめざして毎日特訓に励み始めた。
しかし、不幸にも事故に遭遇。
重傷を負い、半年間の入院を余儀なくされたため、レーサーへの道を断念せざるを得なくなった。

退院後、進路を断たれ、なす術もなく、パブに入り浸りの毎日が続いた。
しかし、やがてそのパブに出入りするアートスクールの学生達と仲良くなり、
彼等のオーガナイザー(主催者)としてあれこれ仲介役を果たすうちに、
アートの世界の魅力にしだいにひかれていった。
そして、さまざまな仲介を自分自身の仕事にしてみようと決心したのが17歳の時。

20歳の時、ある一人の女性と出会う。
それが、ロイヤルカレッジでテキスタイルの教師をしていたポーリーン・デニア。
やがて同居を始めるが、彼女には2人の子供と2匹の犬という同居人がいた。
一夜にして大家族の長となった彼は、家族全員を養うために、
それまで以上にあらゆる仕事をこなし、懸命に働いた。

1970年ノッティンガムに最初の店、ポール・スミス リミテッドを開く。
当初はマーガレット・ハウエル、ケンゾーなどの商品を取り扱っていたが、
ネクタイなど徐々に自らの名を冠した商品も取り扱い始める。

彼はその後4年間で専門的なデザインワークとビジネスについてのあらゆることを、
実際の仕事を進める中で学び取っていく。
そう、彼はデザイナーでありながらビジネスマンとしての自分も磨いたんだよ。

ノッティンガムのショップや、オーガナイザーとしての彼の仕事ぶりは、
やがてロンドンのファッション業界で噂されるほどになっていた。

そして1974年、その噂を聞きつけた「ブラウンズ社」に、
専任のコーディネーター兼デザイナーとして採用される。
彼はノッティンガムの自分のショップを経営するかたわら、
3年間同社の買いつけとブラウンズブランドの商品デザインを担当し、
同社の名声を高める大きな原動力となった。

同時に、彼はノッティンガムの彼のショップも大きくしようと考える。
そして初めて自分の名前を冠したシャツを作り、それを自身で売り込みに回る。
この時、初めて買ってくれた客が、ニューヨークの有名デパート“バーニーズ”のオーナーの息子。
彼は、オーナーの息子が宿泊しているホテルを聞きつけて押しかけ、
一枚ずつ熱心に説明したんだ。
そしてその熱心さに感心したオーナーの息子から、200枚の購入契約を勝ち取ったんだ。

何でもやってのける彼の行動力のエピソードは他にもあるんだ。

1976年、彼は初めて自分のコレクション・ショーを開いた。
とは言っても、もとより資金の余裕などなかった彼は、
パリのアパートメントの一室を借り、そこを会場にした。
モデルは友人をかり集め、フィッターもポーリーンや友人が担当した。
会場用の椅子は、アパートの隣り近所をかけ回って数十脚を揃えた。
スーパーでシャンパンを買い、借り物のグラスを並べ、
自分の家から持ってきたステレオで音楽を流すという、
何から何までチープな仕込みではあったが、ショーは大成功だった。

そして、以降、毎シーズンパリでメンズウェアの新作コレクションを発表することになる。

1979年、33歳になった年、念願だったロンドン市内にショップをオープン。

1980年ニューヨークデザイナーズコレクティブにパリのマルセル・ラサンスなどと共に招聘される。

1984年日本に進出。南青山の骨董通りに路面店を構える。

1987年ニューヨーク5番街に路面店を構え、
ヤッピーと呼ばれた若いエリート層の間で一種のステイタスシンボルとなる。

1989年英国の名門デパート『ハロッズ』に単独のコーナーショップがオープン。
これはハロッズの歴史上、かつてない展開。

1991年英国産業デザイナー賞を受賞。

1994年エリザベス女王より大英帝国勲章(CBE)に叙勲される。
 
1997年トニー・ブレア首相就任の際に認証式のスーツを担当する。
(以後、ブレア首相退任までの10年間の長きに渡り公務のスーツを担当した。)

1998年ロンドンの高級住宅街ノッティングヒルに、
念願であった邸宅を改装しビスポーク(注文服)のアトリエを併設した旗艦店「ウエストボーンハウス」を開店。

2000年ファッションデザイナーとしてはハーディ・エイミスに続き2人目となる
エリザベス女王からサーの敬称で呼ばれるナイトに叙勲される。



どう?
彼の仕事振り?
彼は素晴らしいデザイナーであり、優秀なビジネスマンであり、そして多彩なアイデアマンだったんだね。
彼は17歳のとき、「さまざまな仲介を自分自身の仕事にしてみようと決心した」。
その後、彼は生きるために様々仕事に手を出したが、
どんな仕事でもそれは一つの仕事に変りは無いという、彼の姿勢は一切ぶれなかった。

そして、彼はこの仕事をするきっかけとなったアートの世界にも以前関わりを残しているんだ。
コンテンポラリーアート(現在芸術)の蒐集家として、
そして、若いアーティストを支援するスカラシップ(奨学金)を行なう者として・・・。






菅さんは総理大臣になって本当に人が代わったかのように輝きを失った。
それは、総理という仕事が彼を変えてしまったのかもしれない。
でもね、総理大臣の仕事は誰がやっても目的は一つなんだよ。

「日本をよくすること。」

これが総理大臣の仕事。







"The job changes you, you don't change the job."
『仕事によってあなたは変わる事もあるが、あなたが仕事を変えることはできない』 

                                  (ポール・スミス)




  





8月のカバン【FENDI】





「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり・・・」

やー、みんな。暑い毎日が続くけど元気かな?
ところで、「しょっぱなから何の呪文か?」って。
「悪魔くん」だよ、「悪魔くん」。
そう、実は僕は今NHKの朝ドラ、「ゲゲゲの女房」にどっぷりとはまっているんだ。

漫画、「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である、
水木しげるさんの奥さんの手記を原作とするこのドラマ。
実に面白い!!!

第二次大戦後の昭和の時代を舞台に、
家族の愛や、友情、物作りの情熱をテーマに毎回感動を与えてくれるんだ。

その中でも、最近僕が一番感銘を受けた場面は、
シベリアに抑留された後帰国し、全てに投げやりになっていた男が、水木しげるさんに対する場面。

実は水木さん、大戦で左腕を無くしているんだけど、その水木さんに男がこう言うんだ。
「あんたもそうだろう。そんな身体になって他にやることが無いから漫画なんか画いてるんだろう。」

すると水木さんは、少し困った風にこう答えるんだ。
「そんな事考えたことないですな。自分は好きで漫画を画いとります。」

その、水木さんの自信に満ちた言葉と態度に男は再び仕事を始める事を決意するんだ。

水木さんの仕事に対しての 「誇り」と「責任」 そしてその仕事への「情熱と愛情」。
それは、多くの日本人が今無くしてしまっているものかもしれない・・・
そんな事を考えさせられたんだ。

そして同時に僕はある言葉を発した、あるひとりの人物思い出した。
それは、ファッション界の「皇帝」と呼ばれるカール・ラガーフェルド。

フェンディ、シャネル、クロエ、そして自分のブランドの4つのメゾンのデザイナーを兼任し、
超多忙な毎日を過ごすカール・ラガーフェルドが仕事について聞かれたとき答えた言葉が、

「仕事でなにが楽しいかって? それは仕事そのものだよ」なんだ。


よし、んじゃ、今月のカバンはそのカール・ラガーフェルドが手掛けたブランドの一つ、
【FENDI】について書こうか。



ダブルF柄(ズッカ柄)で有名な【FENDI】は、そのマーク通り、二人のフェんディーよって設立された。
1925年、ローマでエドアルド・フェンディ&アデーレ・フェンディ夫妻が
ローマのプレヴィシート通りに小さな皮革製品の店と毛皮工房をオープンしたのが始まり。

1946年、ピアーヴェ通りに店をオープン。
これを機に創始者の娘、パオラ、アンナ、フランカ、カルラ、アルダのフェンディ五姉妹が会社に従事し始める。
その後、彼女達の才知と手腕によって、店は発展。

1965年にカール・ラガーフェルドが毛皮のデザイナーに就任。
ラガーフェルドは、かつて試されたことのなかった、
織り込み、重ね込み、エナメル加工、ステッチ使いなどさまざまな技法を駆使。
このカールの革新的なデザインは、毛皮のイメージをクラシカルなものから
クリエイティブで機能的なものに一新したんだ。

こうして、【FENDI】はほかの毛皮専業メーカーの追随を許さない、
ラグジュアリーで個性的なモードブランドへと成長した。

1969年、毛皮コートのプレタポルテを発表と同時にバッグや小物も発表。
このときに、1940年代からコートや羊のバッグの裏地として使われていた「ダブルF」の柄にカールが着目、
これを表側に使うよう提案し、有名な「ズッカ柄」が誕生。

1977年には毛皮や革製品にコート、ジャケットなど幅広いアイテムが加わり、
本格的なプレタポルテをスタート。

1997年、フランスパンを小わきに抱えているかのように持ち歩くことから名づけられた、
新作バッグ「バゲット」を発表。一大ブームを巻き起こす。
こちら関西では、甲南女子大の女の子達が広めたとされ、「南女持ち」なんて名づけられたよね。

1999年、新作バッグ「ロールバッグ」を発表。
同年、LVMHグループとプラダが資本参加し、合弁会社を設立。

2000年、直営店のネットワークを強化、全世界で4店舗から83店舗まで拡大。
2001年、プラダが保有する合弁会社の株のすべてをLVMHグループが買収。

この頃よりバッグのセレリア・ラインを発表。
創業者アデーレとエドアルド・フェンディが、
乗馬を好んでいたことにインスピレーションを得て誕生したこのラインは、
ローマの伝統的な馬具に使用される貴重な革「キュリオ・フィオレ」を使用し、
特徴的な、持ち手やへり部分のステッチも含め、全工程が専門の職人の手作業で行われている。

2003年春夏コレクションで新たに発表されたのは、
古代ローマの戦車にインスピレー ションを得た新作バッグ「ビガ」。
SFムードただようシルバーメタリック色のバッグは、今まで見たことのない斬新なデザイン。

そして、現在はフラップ部分がガマ口になった異色のデザイン「スパイ」シリーズが大人気となっているんだ。


一方の、カール・ラガーフェルドは、

【FENDI】のデザイナーに就任する二年前の1963年、クロエのヘッドデザイナーに抜擢。
1965年から【FENDI】のデザイナーも兼任し、
1983年からは、ココ・シャネル亡き後低迷していた、シャネルのデザイナーに就任。
シャネルを立て直す。
馬鹿でかいサングラスが大ヒットしたよね。

1984年、自身のブランド「カール・ラガーフェルド」をスタート。

1986年、デ・ドール賞(金の指貫き賞)受賞。
1988年、マルティーヌ・シットボンにクロエのデザイナーをバトンタッチするが、
1992年、再度デザイナーに復帰。
結局クロエは5年間勤めた後、97年にステラ・マッカートニーにバトンを渡す。

2004年にH&Mとコラボレーションで「Karl Lagerfeld for H&M」を展開し、大きな話題となる。
2005年、自身のブランドを、トミー・ヒルフィガーに売却。
2008年、TIME誌が選ぶ最も影響力がある100人にファッションデザイナーとしては唯一選出される。
2009年、レペットとのコラボレーションでフラット・サンダルとプラットフォーム・ヒールを発売。
そして、現在に至っているんだ。

ね、凄い人でしょ。
こんな人が、「仕事そのものが楽しい」って言うんだよ。
考えさせられちゃうよね。



でね、もっと凄いのがカールの周辺で働く人たち。

「サイン・シャネル カール・ラガーフェルドのアトリエ」というドキュメントでの一コマ。

舞台は 「シャネル」のオートクチュールのコレクションに向けての職人たちの仕事場。

職人と言ってもお針子さんたちは普通のおばさんたち。
そのお針子さんたちが、カールのスケッチのドレスを作り上げるのだが、
やっと仕上がる寸前でカールの要求が変わったり、没になったりする。

それでもこの仕事が好きだという一人のお針こさんに「この仕事の魅力は?」と
インタビュアーが質問すると彼女はこう答えるんだ。

「困難なことね!」 




僕が、「ゲゲゲの女房」にずっぽりとはまってしまったのは、
いくら貧乏をしようとも自身の仕事に対するスタンスがぶれない水木さんの姿勢に、
自分の姿を重ね合わせているから。

今、僕たちは「TIPZONE」と言うブランドを育てている真っ最中。
そのコンセプトは、
「妥協を許さない質へのこだわり、
外観の美しさだけでなく生活の道具として、合理的で機能的な美しさの追求。」
というもの。

当然高額の商品となり、それは、今の時代には合わないかもしれない。
苦戦もしてきた。心無い言葉も掛けられた。
けれども、ここになって少しずつ少しずつ世間に認められてきたんだ。

今、もう一歩。
僕らは水木さんの言葉や、カール・ラガーフェルドの言葉、お針子さんの言葉を胸に、
仕事に取り掛かろうと思うんだ。












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